方舟

方舟と言って思い出すのが、学生時代にこの曲を定演で演奏することになったとき、その歌詞の解釈をめぐってああでもないこうでもないとあれこれと議論を交わしたこと。先輩のアパートに集まって明け方まで喧喧諤諤と議論に花を咲かせるなど、今思えばあの時にしかできない経験だったなぁと思ったりとか。合唱を始めて一年に満たず、今ひとつ「ハーモニー」なるものの心地よさが理解できていなかった私にとって、言葉の分析という比較的慣れ親しんだ手法でその音楽の本質にせまるというのは、心地よくもあり、またスリリングでもあった。


比較的平易な詩が選ばれやすい日本語の合唱組曲の中にあって、大岡信の手になるこの「方舟」の詩は比較的難解といっても良い部類であると思うし、現に当時の我々の間にもそのような認識があった。あの時の議論を通じて新鮮に感じたのは、同じ言葉、同じ文字の羅列の中からでも、人によって様々に異なるイメージを喚起され、時によっては全く異なった解釈がなされるのだということ。そんなのは当たり前だろうと当時の私ですら認識はしていたものであるが、実際に膝を突き合わせて議論を交わしてみれば、他者から出された見解に目から鱗が落ちるような思いをしたり、また私から提示した解釈が「なるほど」と他者に受け入れられたりするのは、それは実に刺激的な体験であったと覚えている。


実はこの「方舟」という詩に対する作曲者・木下牧子の解釈は、必ずしも正しくないのではないかと私は思っている。この詩で用いられる表現「灯火は地球に絶えた」「見えない河原」「河は涸れ」「鳩たちが明るい林を去ってからすでに久しい」などから連想されるのは、およそ生命の死に絶えた世界、生命を育むことが不可能になった地上の姿だ。例えば核戦争後の世界、あるいは「沈黙の春」が予見した未来、大岡信がこの詩に具体的に何をイメージしたのかは定かではないものの、「方舟」というタイトルが直結するのはノアの大洪水、すなわち地上の生き物全てを消し去るカタストロフのイメージであり、描かれた世界がそのカタストロフに見舞われた地球であるとみるのは無理な解釈ではるまい。


私がそこにイメージするものは圧倒的な死の世界、絶対的な静寂の世界だ。


木下牧子の提示する「方舟」のアップテンポに畳み掛けるかのように展開しクライマックスを目指すその曲調は、作詩者・大岡信がこの詩に込めた筈のイメージを正しく表現しているのだろうか? 曲抜きでこの詩に対峙したときに私が抱いたイメージは、曲のイメージとはおよそ合わない。あるいは多くの人が予見を持たずにこの詩を呼んだときに描くであろうイメージは、およそ木下牧子の作曲する「方舟」の曲調とはそぐわないのでなかろうか、そのように思うのだ。


「方舟」を一種のエクソダスの物語として解釈するのであれば、そのドラマティックな曲の展開は詩の内容にマッチしているとも考えられる。事実、木下牧子の作曲する「方舟」は執拗に冒頭のフレーズ「空を渡れ星座の船団」をリフレインし、あたかもそれが主題であるかのように作曲されている。しかし実際のところ、このフレーズは大岡の詩の中では冒頭に一度登場するのみだ。大岡の詩は変わり果てた地上との対比物として変わらなく美しい夜空を現出させているのであって、この詩の主題はあくまで死に絶えた静寂の世界の方にあると読むべきだろう。


だから私は思うのだ、この「方舟」という曲は大岡信の「方舟」という詩を表現してはいない、それを別のものに作り変えてしまっているのではないかと。


ではその作り変えられた「方舟」を私は否定するのかと言えば、そんなことはない。最初に書いた通り、良いものは良いのだ。


実際のところ、作詩者・大岡信の抱いたイメージはどうだったのだろう…それは実のところどうでも良かったりする。基になった詩よりも、木下牧子の作った「方舟」をより愛する自分が居る…それだけの話にすぎない。