石井四郎等の戦後

731部隊で人体実験を含む細菌戦の研究が行われていたことは、さほど厳密に秘匿されていたわけではない。創設者である石井自身が、陸軍の軍医学校で人体実験の映写フィルムを流しながら、731部隊の研究者を募るために熱弁を振るっていたのだから、その筋では知らない者の方が少なかったかもしれない。


そんな状況であるから、米国は進駐の直後から731部隊の元研究員に目をつけていた。米側は調査の初期の段階で、731部隊が人体実験を行っていたであろう心象を固めたが、確証に繋がる証言は得られなかったようだ。


もしも米国が、本間をマニラの法廷へ送り込んだように、元731部隊員に対して中国やソ連の法廷へ送致する手続きをとっていたならば、彼らが有罪判決を受けていたのはおそらく間違いないだろう。しかしそうならなかった背景には、大国間の微妙な思惑があった。


石井を始めとした元731部隊幹部等は、隠匿した人体実験のデータと引き換えに、戦犯追及の免責を求めた。最終的には、マッカーサー自らが免責に許可を与えたと言う。取引は1947年に成立した。米国が選んだのは、彼等をソ連のためにシベリアで強制労働に従事させることではなく、731部隊の研究データを自国の生物化学兵器の開発等のために利用することだった。石井らは、大国同士の対立構造を利用して上手く立ち回ることに成功したわけだ。


その後、1959年に没するまで、石井がどのような生活を送っていたのかについては良くわからない。731部隊の実態が厳重な秘密と言うわけでもなかったのは前述の通りだし、50年代の初頭には、ハバロフスク裁判の法廷記録の和訳が日本でも出回ったので、その活動内容は広く一般の知るところとなっていた筈だ。


石井がその部隊長であったことも有名であった筈だが、彼がそのことで世間から責めを受けたといったエピソードは、私が見聞した範囲では見当たらなかった。


石井以外の元731部隊員はどのような戦後を送ったか?
判明している範囲で、元731部隊員の戦後の就職先には、次のようなものがあるらしい。


多くの者が、戦後も第一線で活躍したようだ。驚くにはあたらない。国力に劣る日本にとって、細菌戦の研究は対米・対ソ戦の切り札になる研究として期待されていたのだ。医学・疫学の方面で一流のスタッフを募ったのであるから、彼等が戦後も研究・臨床分野の第一線で活躍したとしても不思議は無い。


戦後の日本は彼等を受け入れた。元731と知ってか、知らずか…



この話題、続く…