辻政信の戦後

1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約により、日本は米国による占領を終え、主権国家としての地位を認められることとなった。この調印式の席上で、トルーマンは「アメリカは真珠湾とバターンを忘れない」と述べたという。米国にとって「バターン死の行進」とは、それ程に忘れがたい記憶であったということだ。


人から受けた痛みというのは、かくも忘れがたいものだ。
5年や6年で忘れられるものではない。


既述の通り、バターンに関わる戦犯裁判では本間雅晴が銃殺刑に処せられているが、少なくとも本間は、バターンに関する限りは戦犯行為というほどの罪を犯していはいない。「死の行進」という悲劇が発生していること自体、知らなかった可能性が高い(それはそれで問題だが)。虐殺命令を出したのは辻政信だ。ちなみに戦後のマニラ法廷における本間の訴状には、ホセ・アバド・サントス最高裁判所長官殺害事件が含まれているが、この事件に本間が関わっていたと考え得る根拠は非常に薄い。サントス殺害の命令を出したのも辻であるとする説が有力だ。


米国による対日戦犯指名の筆頭は東條、嶋田、本間であったが、英国もまた戦後早々に対日戦犯指名と身柄拘束の要請を出した。筆頭指名は、山下奉文元大将、朝枝繁春元中佐、そして辻である。もちろん、米国の管轄であるバターンの事件が理由ではない。犠牲者5,000人とも20,000人とも言われる、シンガポールにおける華僑虐殺事件の責を問われてである。


その辻はどうなったのかと言えば…終戦を知ってすぐに行方をくらました。タイで終戦を迎えた辻は、僧の姿に化けて現地に潜伏、英軍進駐後に辻の捜索が本格化すると、現地の華僑工作員のつてを頼って、蒋介石の国民党軍へ身を投じて保護を求めた。重慶、南京に滞在している間、辻は国民党軍のために対共産軍用の操典や兵用地誌の編纂にあたったという。国民党側にしても、つい昨日までの敵軍の参謀を賓客として迎えたということは、辻と言う男にそれだけの利用価値があったということだろう。


大陸での数年の潜行生活を経た後、1948年半ばに辻は密かに帰国を果たす。この前後の状況に関しては不明瞭な点が多い。機を見るのに敏感な辻が、間近に迫った国民党軍の崩壊を察知して、中国からの脱出を図ったともとれる。しかし、この時期までに、辻とはツーカーの間柄であった服部卓四郎元大佐を中心に、服部機関と呼ばれる情報組織が作り上げられ、GHQ内の情報部門G2への協力活動が行われていた。辻と供に戦犯指名を受けていた朝枝なども、復員後すぐに服部の下に呼ばれ、G2への情報提供する見返りに、戦犯としての摘発を免除されている。英国といえども、日本国内での逮捕権を有する訳ではないので、GHQが見逃すということは、事実上の免責と言える。辻の帰国に先立って、GHQから英国に対して、辻を含む戦犯の追及の免除が要請されていたりするところを見ると、おそらく服部が辻の免責のための工作をG2部長ウィロビーを通じて行ったというのが真相だろう。


辻がGHQに対して具体的に何かの情報などをもたらしたのか、それはわからない。しかし、極東でのプレゼンス確立に向けて様々に画策する米国としては、この後風雲急を告げる中国二大勢力の一方の内情を自身の眼で見聞してきた辻は、みすみす英国に処刑させてしまうには惜しい存在であったろう。辻の戦犯指定は、1950年に正式に解除される。その直後に、辻自身が潜行生活の内容を綴ったドキュメント「潜行三千里」が出版され、これがベストセラーとなった。


辻を悪人であると断ずるのは容易い。
彼はシンガポールの華僑大量虐殺とバターンの虐殺の黒幕だ。
のみならず、服部と結託してノモンハン事件を扇動、本国の不拡大方針にも関わらず際限なく戦線を拡大した挙句、惨敗。多数の将兵の命が失われた責任の多くが辻にあると言える。その他にも枚挙に暇が無いほど多くの血生臭い逸話を持つ彼だが、とりわけ陰惨なのが、英軍パイロットの肉を食ったという逸話。真偽の程は定かでないが、他ならぬ辻自身が自慢げに吹聴してまわっていたと言うのだからタチが悪い。何よりタチが悪いのが、彼が責任の追及から逃げ回り、遂に一切の断罪を受けずにいたという点だ。


しかしながら…
忘れてはならないのは、戦後の日本国民は彼を断罪しようとしなかったこと。辻は「潜行三千里」で得た名声をもって、1952年の衆院選に石川一区から出馬、トップ当選を果たす。戦後の日本は、辻政信を受け入れたのだ。その後の選挙でも辻は順当に当選を果たし、1961年に失踪するまで、衆議院参議院の議員を務めている。


国民は辻の実相を知らなかったのか? そんなハズは無い。辻の名声のほとんどは「潜行三千里」から来ている。そもそも辻が潜行しなければならなかった理由がシンガポールの華僑虐殺であるわけだし、辻自身もこの虐殺を命じたのが自分であることを否定していない。国民は、他民族の大量虐殺事件の首謀者を、再び国家の指導者として選んだ。


人に与えた痛みというのは、かくも忘れやすいものだ。
5年や6年で忘れてしまうほどに。



この話題、続く…